ヘッダー写真

標津線

蒸気機関車イメージ画像

標津線は釧網本線 標茶駅から分岐して中標津を経由して根室標津に向かう本線と、中士別から根室本線 厚床に至る視線があった。北海道の東の果てまで来ると釧網本線のC58が撮りたいところであったが、訪問時にはSL全廃になっており、やむなくここを訪れた。撮影は標茶中心に2本の貨物列車を写した。この路線は2000年にSL復活を果たし冬のシーズンに「冬の湿原号」が走り出した。これにより再びこの地を訪れることになったが、当時の広いヤードやターンテーブルは失われており、当時を思わせるものは少ない。 標津線は釧網本線 標茶から分岐して中標津を経由し根室標津に向かう本線と、中標津から根室本線 厚床に至る支線があった。北海道もここまで来ると釧網本線のC58を狙いたいところだが、残念ながらこの時期もうSLは全廃されており、やむなくここに来た思い出がある。撮影は標茶中心で2本の貨物列車を写していた。2000年SL復活で冬の湿原号が走るようになり、再びここを訪れることになったが、ターンテーブルを中心とした施設はなくなってしまっていた。


石北本線

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石北本線 生田原から金華駅に至る間に常紋信号所がある。金華峠を超える通称「常紋越え」がこの場所であり最大の難所である。この峠に挑むデコイチの姿を見たくて渡道したようなものである。すでに後部補機はDE10に変わっており、蒸気機関車終焉間近を感じたが、その不安をかき消すような迫力ある音と煙により寒さや飢えは吹き飛んだ。写真は山の高いところから撮っており、マニュアルカメラでレンズ交換して、フイルム交換しても余裕をもって写真を撮ることができた。
また併せて北見、網走間の駅撮り写真や北見機関区でのSL整備の様子なども記録している。


宗谷本線

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宗谷本線は日本最北端の稚内に至る旭川~稚内間259.4㎞の路線である。1974年8月に訪問した折は利尻富士をバックに走るC55姿をカメラに収めようとして出かけたが、天候により思いは果たせなかった。この時さらに塩狩を中心にした塩狩峠越えの写真も撮っていなかったので、1975年3月訪問時に是非とも撮りたかった。しかし無煙化の波は進んでおり、宗谷本線には9600の貨物列車が数本走っているだけの状況となっていた。74年訪問時にかろうじてC55の写真が撮れたことは幸運であった。


名寄本線

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名寄本線は名寄-遠軽間130kmを結ぶ路線であり、国道239号線に沿って東進し興部に至りオホーツク海に沿って遠軽に至る路線である。撮影ポイントはその間でも天北峠を越える一の橋-上興部間が有名であり、最後の雪の季節を走る9600の姿をカメラに収めた。当初一日だけの予定であったが、宗谷本線のD51運用が無くなっており、代替えとして2日間ここで撮った。このころの情報網は人伝えしかなく、現地であった仲間に声をかけ情報を交換していた。


室蘭本線

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室蘭から岩見沢までの140.2kmをSLが日本で最後まで走った路線である、1974年8月の夏と1975年3月の早春に2度訪問した。 さすがに最後までSLが残ったこの路線はSL銀座であり、石炭輸送の幹線であった為、複線区間を実にたくさんのD51、C57が次から次にやってきて、撮影の移動もSL列車であった。路線は大きな山場も無くほとんど平坦で山場はないが、北海道らしい延々続く直線や複線の為SL同士のすれ違いなどが見れた。


幌内線

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岩見沢-幾春別 18.1kmとその途中三笠駅から分岐し幌内に向かう幌内線はこの三笠-幌内の2.7kmが幌内に向かって20‰以上の登り勾配となっており、石炭列車本数も多く豪快なSLの走りを満喫できた。3月訪問時は、さすがに春の訪れが近いため、雪はほとんど融けていたが、私にとって最後の北海道、現役最後のSL撮影をここで終えた。常紋に続きこの路線で「爆煙」を吐く力強いSLの姿を見れたのは感激であった。


広尾線

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広尾線 帯広-広尾間を9600が引く貨物列車が1往復走っていた。当時隣の駅に愛国駅があり、「愛の国から幸福に」と言うことで無人駅だった幸福駅には訪問客も多く、そこで愛国-幸福感の切符を買うのがブームになっていた。SLが走っているから撮りに行こうと行程に入れていたが、唯一悪天候に見舞われた。低気圧の接近で大雪になり写真も猛吹雪の中の写真となってしまった。


夕張線

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追分から分岐し夕張までの43.6kmを走る路線で、D51が担当していた。訪問した先は追分から2駅の川端駅。駅の先に夕張川があり、そこにかかる鉄橋を狙ってここを訪れた。さらに奥に行き夕張まで行ってみたかったが、この日は札幌に戻り、夜行急行利尻に乗らなければいけないため、あまり深入りしなかった。


中央西線

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中央本線からSLが無くなるとの事から、中学の友人と出かけた。名古屋で一泊し翌日木曽福島を目指した。あいにくの雨で木曽福島駅を中心にあまり動くことなく撮影した。沿線はすでに架線が張られ電化無煙化があと少しであると思った。木曽福島には機関区があり扇型車庫を写し、入替用のC12がいて楽しめた。


関西本線

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中学2年の夏休み蒸気機関車は、すでに無くなったものと思っていたところに、関西本線天王寺駅でD51を見て驚いた。そして初めて蒸気機関車の写真を撮りに行ったのが、9月24日の加太駅であった。11月下旬まではSLダイヤ情報が発行されていなかったので、時刻表を見ても貨物列車の通過時刻などわかるわけでもなく、目くらめっぽうで写真を撮っていた。写真といっても父親のオリンパスを借りてピントを合わせてシャッターを切るのが精一杯で、構図までの余裕はなかった。年明けごろには貯めた小遣いとおねだりで一眼レフを手に入れ、本格的に撮影の世界に入っていった。


紀勢・参宮線

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1973年に近畿地方で蒸気機関車が引く客車列車はここしかなく、関西本線の写真を撮りつつ、昼からこの沿線に出かける機会が多くなった。伊勢市まで足を延ばせば、C57の牽く列車にも乗ることができて、初めての経験に感動した。この時期の亀山機関区には110号と198号が在籍しており、同じC57でも全く違う生い立ちの姿を楽しむことができた。また合間にD51の貨物列車もあった。


信楽線

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現在は信楽高原鉄道として存続しているが、当時1往復C58の短い貨物列車が、片道15㎞の山道を走っていた。亀山からD51貨物の後ろにくっついて、柘植まで補助作業をしたのち、ターンテーブルで方向転換し(ターンテーブルの写真は関西本線ページで紹介)単機で草津線の貴生川駅に行く。貴生川で貨車をつないで信楽まで行き、折り返し貴生川に戻り、柘植からD51貨物の後ろにくっついて、亀山に帰っていた。写真にも紹介しているが登り勾配が33‰のかなりきつい坂になっており、迫力ある姿が見られた。関西本線から近いものの、一往復の効率の悪さから、廃止ぎりぎりの一回のみの訪問に終わった


山陰本線

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山陰本線の訪問は一度きりであった。、1974年の春休み、九州のSL撮影の帰りに長門市まで入り込み、一泊し翌日デコイチの牽く客車に乗り西のSLに別れを告げた。当日は天気があまり良くなかったため写真自体の華やかさはなかったが、勾配区間を力走するシーンが素晴らしかった
また1976年には、厳密には復活蒸気となるが、山陰本線(京都-二条間)高架化完成記念列車で、当時動態機だった梅小路のC1164が走った。高架橋のため撮影場所が確保できず、マンション屋上・屋根の上・唯一地上の二条駅に撮影者の群れが集まった。交通渋滞を緩和するため、京都市大宮通~二条駅構内まで3.2kmを49億円かけて工事した。


室木線

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現在は廃線になっているが、鹿児島本線の遠賀川駅から博多方面に分岐し、南に下る盲腸線であった。遠賀川→古月→鞍手→八尋→室木で終点になっており、一日7往復ハチロクが走っていた。室木行きの機関車が逆向きとなる。毎年夏休みに帰っていた両親の故郷福山から、単独九州に向けた旅だった。後藤寺線の撮影の後訪問し、これが最初で最後となった。現地に入ったのは夕方で、何もない夕暮れの風景の中、盆踊りの炭坑節が流れていた。


筑豊本線

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1973年8月訪問時にはすでに筑豊本線のSLはほとんど無く 直方駅を発着する宮田線・伊田、糸田線の撮影になっていた。、1974年12月には最後の九州を走るSLを撮るべく、主に南九州に行っていたが、筑豊本線を九州最後のお別れ列車走るという現地情報を得て、急遽直方に移動して、最後を飾るのにふさわしい美しい9600の写真を撮ることができた。


後藤寺線

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後藤寺線は後藤寺駅(現在は田川後藤寺駅)から新飯塚駅までの路線で、途中の船尾駅にセメント工場があり後藤寺駅と船尾駅の間をおよそ20往復位の9600型機関車が行き来していた。SL運転密度に誘われるように何度か訪問した。ここの機関車の面白さは、前2両に正逆があったり前後ろにくっ付いたりで、一日居ても飽きない場所であった。後藤寺駅から船尾方面にしばらく歩くと中元寺川鉄橋があり、右から左からやってくる石灰列車の撮影が楽しめた。また後藤寺駅には機関区がありたくさんの9600型機関車がいて、元気に働いている姿を見ることができた。


田川線

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田川線 この路線は行橋駅から田川伊田駅に至る現平成筑豊鉄道である。行橋の苅田港に石炭・石灰を運ぶための路線であったそうで、勾金駅と崎山駅間で油須原駅あたりをサミットに上り勾配がきつく、長い貨車を9600型機関車がプッシュプルで登りきる、迫力のある走行が楽しめました。


高森線

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高森線はスイッチバックで有名な豊肥本線 立野駅から分岐し終点の高森までのローカル線である、恐らく計画では高千穂まで抜ける予定であったと思われる。 ここを担当していたC12型蒸気機関車は、高森に向かうときはバック走行で上り坂を登っていき帰りは正面向きとなった、列車編成は貨車と客車の混合列車でカルデラ地帯を走る特異な路線であった。(現在は南阿蘇鉄道)


湯前線

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湯前線は人吉から湯前に至る路線で、8620が走る路線として室木線と共に、是非一度訪れて見たい路線であった。運行は一日臨時貨物を含めると2往復で、決して効率のいい場所ではなかった。訪問時走っていた機関車は58654で一時は静態保存されていたのを、JR九州が復活させ「あそBOY」として豊肥本線を走っていたが、シャーシ部分に致命的な破損が見られ2006年に運転が中止され、再び走る事は無いかと思われたが、再度レストアされ2009年に復活した。この58654の現役時代の貨物を引く貴重な姿をご覧頂きたい。(現在はくま川鉄道)


日南線

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日南線 南宮崎から志布志に至る海沿いの路線で、撮影当時は3往復のC11貨物列車が走っていた。冬でも日差しが暖かく宮崎からはしばらく海の風景が続き、一旦飫肥に向けて山間部に入り、また大堂津に向けて海に出て志布志に至った。沿線は景勝地も多く短い時間での訪問であったが、十二分に楽しめた。


志布志線

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志布志線は志布志湾のある志布志駅から日豊本線西都城駅までの路線で、九州でC58が走る路線であった。1987年に廃線となっている。訪問当時の日豊本線はまともに撮影できるSLも無くなり、わずかに残った支線を撮り渡っていた。撮影効率こそ良くなかったが、暖かい南の空の下でのんびりした時間を過ごした記憶が残っている。


吉都線

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吉都線といってもSLはすでになく、鹿児島本線の都城駅で寂しく入れ替えをするC55と同じく入れ替えをするC12を撮るのみであった。最後にはDF50の次位に付いたC55の姿を最後に見て終わった。